御由緒


当神社の鎮座するこの地は、古くは利根川本流の西岸に位置し、広漠たる原野の中に駒形社一社のみあり、駒形大明神(こまがただいみょうじん)と称していました。

 ご祭神は「保食命(うけもちのみこと)」で、食物農耕守護の神として信仰されていました。上野名跡考では『駒形とは、野の神・山の神・水の神・土の神の他社より浄き土を採り駒形を造り、野馬守護のためこの四神を祀る』と誌されております。境内は馬蹄形をなし源頼朝の愛馬「磨墨(するすみ)」の蹄と伝えられるものが御神体の一部にあります。

 「上野国群村誌(こうずけのくにぐんそんし)」によると、勧請年月は元亀元年(一五七〇年)と伝えられています。

神仏混淆(しんぶつこんこう)(神道と仏教が合体した信仰)の時代は、天台宗泉蔵寺に属していましたが、慶安年間(一六五〇年)頃、社殿を改築し「別当 山伏修験本明院(やまぶししゅげんほんみょういん)」として駒形の氏神として祀られるようになりました。

 宝暦七年(一七五二年)にも社殿を改築し、現在の社殿は明治三十八年(一九〇五年)に新築したものです。

 明治四十年十二月、本社境内末社三社(八坂社(やさかしゃ)・稲荷社(いなりしゃ)・秋葉社(あきはしゃ))並びに町内字高島鎮座 琴平神社(ことひらじんじゃ)とその末社四社(八坂社(やさかしゃ)・稲荷社(いなりしゃ)・秋葉社(あきはしゃ)・菅原社(すがわらしゃ))及び町内字桃井鎮座の雷電神社(らいでんじんじゃ)とその境内末社三社(八坂社(やさかしゃ)・三峰社(みつみねしゃ)・諏訪社(すわしゃ))を駒形神社に合併しました。

大正三年十月九日群馬県より神饌幣帛共進(しんせんへいはくきょうしん)神社に指定され村社となり、昭和二十七年十二月、宗教法人駒形神社となりました。その後、平成十七年十月、社殿新築百年祭の記念事業が盛大に行われました。


御祭神 

保食命
大己貴命 大物主命 菅原道真公 伊弉那岐命 伊弉那美命 
火雷命 武御名方命 須佐之男命 


年間行事

 1月 1日 元旦祭(歳旦祭) 
4月15日 春季例大祭 (現在は15日に近い日曜日に斎行)
5月 2日 八十八夜祭 
6月30日 大祓い 
7月最終土日 祇園祭 
10月17日 秋季例祭 (現在は17日に近い日曜日に斎行) 
11月中 七五三 
12月31日 大祓い

春季例大祭・秋季例祭


一の鳥居より参進行列

太々神楽を先導に参進行列

神事

駒形町太々神楽保存会様
による神楽奉納


小学生による乙女舞奉納


八十八夜祭

駒形伏見稲荷神社にて斎行

氏子崇敬者の祈願幟旗を奉納

令和3年5月撮影 五色の御旗

祇園祭

まつりのシンボル
牛頭天王の獅子頭一対
祇園祭の二日間のみ社殿におまつりされます

令和3年祇園祭 撮影

令和4年祇園祭 撮影

令和4年祇園祭 撮影

祇園祭について

  駒形神社の祇園祭の起源は、文化九年(一八一二年)の祇園祭が、最初とされている。前橋藩主であった酒井の殿様から雌雄一対の牛頭天王の獅子頭をもらいうけ、これを祭りの御神体として疫病退散の夏祭りとした。当時の例祭日は、陰暦六月十四日であり、この獅子頭を神輿に仕立てて、『本陣どぶ』から『韮川』に投げ入れて、川下の六文棒からかつぎあげ、一丁目の金毘羅神社までかついで走ったそうである。荒々しい行事であったため、日露戦争後は取りやめになり、以後は、祇園祭の際には、町内に飾られるようになった。 

例祭日を七月二十四・二十五日とした後、最近では七月最終土・日曜とし、町内の夏祭りと共に、毎年行われている。御祭神は、八坂神社の御祭神であるスサノウノミコトと言い、素戔嗚尊(『日本書紀』)あるいは須佐之男命(『古事記』)と書く。『日本書紀』には、伊邪那岐命と伊邪那美命の二神が共に譲りて天照大神、月読尊、素戔嗚尊を生み給うと伝えている。また、『古事記』には、伊邪那岐命が御鼻を洗い給いし時に生まれた神とある。ヤマタノオロチを退治した勇者として、神話の中に出てきており、今もお神楽で踊り伝えられている神である。 

もともと祇園祭は、京都市東山の八坂神社が発祥とされており、清和天皇の貞観十一年、当時の疫病流行の際、社司卜部日良磨詔を奉じ、六月七日に、長さ二丈の鉾を立て、十四日には、都の男子を率いて、神輿を神泉苑に送り、疫病退散のため、祭禮を行い、これを祇園祭と称したことに由来する。今日の鉾や神輿の巡行の端は、ここに発すると言われ、八坂祭とも言う。 

駒形神社祇園祭も、境内に八坂神社を奉祭し、夏の疫病退散と町内の安全祈願を行っているものである。 

 御祭神である須佐之男命に並ぶ、御神体牛頭天王とは、印度祇園精舎の守護神である。祇園天王、又は、略して単に天王ともいう。「伊呂波字類抄」では、牛頭天王は、印度の北方九相国に現れた神である。我国に於いて、この神を行疫神として信仰したことは、『備後風土記』に書いてある。須佐之男命の御事跡と、印度の牛頭天王の事跡と類似点があるところから、牛頭天王を須佐之男命の本地仏のように説くようになった。 

駒形神社に保存されている雌雄一対の牛頭天王の獅子頭は、現在、前橋市の指定重要有形民俗文化財として現存している。