日枝神社  愛宕神社

山王 日枝神社


由緒・沿革


貞観2年(856年)、嵯峨天皇の皇子 二品親王忠長卿が、上野国大守に任じられたのを祝して9か村の郡民が相議り、社殿を造り、近江の国鎮座の日吉大権現の神を遷祀して産土神と仰ぎ、安心立命と天下泰平・五穀豊穣を祈ったのが本神社の興である。当時、この社地周囲の稲の収穫凡そ200万把を山王と称し、貞観7年、阿部真行が上野介に任命されて、水田数町歩を献じて神田としたと言われ、現に神田の小字を残している。このころ神社の内外に神宮寺を建立し、神前で読経し始めた。神社と寺院が接近し、寺院に近い関係にある神社を寺の守護神とするようになった。

 

 文治2年(1186年)足立盛長が参詣して、鰐口1ケを奉納し、建久7年(1196年)には源頼朝が参詣して300余町を寄進し国家安全の祈願をしたと言われる。

 その後は、応仁の乱に当地も戦場と化し、天文年中(1532~1550年)に至って兵火に罹って社殿・僧房旧記の殆どを焼失したが、永禄年間(1560~1568年)に漸く社殿を再造して、僅かに旧態を保った。

現存の社殿は実にこの時の建築である。

近世になり慶安2年(1649年)徳川家光は朱印を以て神田54石を献じみ、歴代の前橋藩主は祭祀料を献じ、度々社殿・玉垣の修復を行った。江戸時代は寺請制度の為、神社の管理運営は別当寺(院)が当たり、祭典も別当職が伺っていた。近代に至っては、明治元年(1868年)神仏分離の令によって社僧・別当は廃止され、神田は国に返還し国家の管理の下に置かれ、社名も村社日枝神社と称された。明治42年国の方針により、神社の合祀が行われ当時の佐波郡上陽村大字中内鎮座の村社稲荷神社、同村大字東善鎮座の無格社菅原神社、同村大字西善鎮座の村社稲荷神社並びに無格社菅原神社・神明神社及びその境内社を当神社の境内神社として移転合祀した。昭和21年11月3日、日本国憲法の公布により神社は国家の管理を離れ、宗教法人として移転合祀した。

戦後、神社の例祭において、神仏習合時代の名残として、日枝神社宮司が祝詞を奏上し別当寺であった禅養寺住職が読経し揃って祭典を斎行する関係が今なお続いているのは、貴重である。

旧村社 昭和27年12月18日 宗教法人設立登記

 

平成3年 社殿塗飾修復

平成17年 社殿屋根銅板葺き替え修復工事

境内社 天満宮 厳島神社

令和3年10月17日例祭 撮影

令和4年4月春季例祭 撮影

年越しだるま供養

【参照】群馬県地域創生部文化財保護課 群馬県近世寺社調査報告書 資料 (クリックすると画像が大きくなります)

愛宕神社


由緒・沿革

 

勧請年月は不詳であるが、総本山である京都右京区の「愛宕神社」の御祭神を奉斎しており、火伏せの神として庶民の火難・災難魔除けの守護を司っている。古くは無格社であったため、山王日枝神社の氏子であった。

大正5年8月 社殿の改築を行う。

大正7年2月 神饌幣帛料供進神社に指定されると村社となり、天川大島町の氏神として崇拝される。

昭和56年4月 社殿修復工事を行う。

平成19年 区画整理事業に伴い、社殿の移転と境内の整備をする。

旧村社 昭和27年12月13日 宗教法人設立登記

令和3年春季例大祭 撮影

令和5年春季例大祭 撮影

令和5年春季例大祭 撮影